先日は
◆信弟子の会(湯島)
◆家庭薬膳の会(新横浜)
の講義でした。
私は
古代の本をよく読みますが
現代の本とは
ずいぶん感覚が違うなと
いつも思います。
大きく違うのは
現代の本→解りやすい(バリヤフリー)
古代の本→解りにくい(バリヤフル)
という点。
古代の本には
丁寧に教えようなんて意図は無い
これが解るなら
読んでみろ
解らないヤツは
近寄るな!
という感じ。
私は
「この感じ」に触れる度に
古代の人たちが
持っていたであろう
「学び」への憧れ
「知」に対する畏敬の念
の様なものを感じ
少し
「おごそかな気持ち」になります。
古代において「知」は
お金を払えば
教えてもらえる
そんなモノでは無かった。
古代の本には
そんな時代の先輩たちの
知に対する
「一途な想い」が詰まっていて
魂に沁みるのです。
このブログの冒頭にも
常に掲げてあるように
私も
「中医学徒」として
先輩たちに
恥ずかしくない様に
先輩たちに
胸をはっていられる様に
進んで参りたいと思います。
先日は
◆あんず薬局内部講義(新横浜)
◆あんずオルタ健康講座(新横浜)
の講義でした。
高樹沙耶さんの
記事を読んでいたら
女優を引退した後の
彼女の言葉として
◆ベンツに乗るとか、エルメスのバッグを持つとか
◆そういうことが幸せで豊かという価値観から
◆きれいな空気を吸って
◆自由な時間がたくさんあって…
◆そういう世界へ、価値観がシフトした
というのが紹介されていた。
女優さんだった訳だから
芸術、アートとか
職人芸とか
そういう物の価値を
知らない訳ではないでしょうが
少なくとも彼女にとって
ベンツやエルメスは
作品ではなくて
ただの「形?」だった様です。
でも私は
「形」が悪いとも思わない。
ブランドの価値の分からない
高校生の女の子が
ヴィトンだのシャネルだのを持ち
「形」を身に着けて喜んでいても
「良かったねぇ」と思う。
それもまた
ブランドの価値の一部分だと思うから。
ブランドの
「価値を認めて」身に着けようが
ブランドを
「形として」身に着けようが
それを
心から楽しんでいたなら
上の高樹さんのような
言葉は生まれないと思う。
ベンツやエルメスを
ちゃんと楽しめなかった人間が
沖縄に行って
沖縄を楽しめるのか?
ベンツにもエルメスにも失礼で
沖縄にも失礼で
そんな意味で
徹頭徹尾
「きもちの悪い言葉だな!」
「こーいうの大っ嫌い!!」と思い
書いてみましたが…
まあ女性には
男には分からない
「色んな事」が
あるんだろうなぁとも
思いますねぇ。
先日は
◆北京中医薬大学・日本校(水道橋)
◆中医薬膳杞菊の会(春日)
の講義でした。
今は社会が複雑化して
選択肢が増えているので
そのぶん
「生きにくい」というか
「本当にこれで良いの?」
なんて思う人が
増えているんだろうなと
思います。
でも
どう生きていくかなんて
自分で決めなきゃ
決まらないし
決めたからといって
その通りに行くとは
限らない。
これが「現実」であり
「答え」なので…
その時々の
想い(目的)を踏まえて
するべき事はちゃんとやり
なるべく
「楽しく過ごす」のが良いのでは?
と思います。
私は
音楽大学の作曲専攻を出ていますが
音大に入る前も
在学中も
音楽や作曲で食って行こうなんて
思ったことはない。
ただ
音楽の「歴史やしくみ」を
知りたかっただけ。
そして北京に渡った時も
中医学で食って行こうなんて
決めていなかった。
(結婚していた)
中医学を極めよう!
と決めたのは学部の3年生の時
(子供がいた)
中医学で食って行こう
と決めたのは10数年前
(バツ2、子供2人)
中医学で食って「行けそうだ」
と思ったのは数年前。
(バツ3、子供3人)
夏が終わりましたが…
私の人生も
夏が終わった頃でしょうか?
すてきな「夢」「あこがれ」を
いつまでもずっと忘れずに ♪
なんてな
感じですかねぇ。
先日は
◆北京中医会(水道橋)
◆あんずオルタ健康講座(新横浜)
の講義でした。
人間は
◆生まれたら死ぬ
◆寿命はせいぜい100年
とか
そういうのは平等ですが
それ以外は不平等ですね。
だから
たとえば世の中には
◆「頑張っても報われない人」がいて
◆「頑張った分だけ報われる人」もいて
◆「頑張らなくても結果が出る人」もいる
私は…
「頑張った分だけ報われる人」
みたいです。
で…
それと本質が同じ感じで
私の回りでは
色々なことの「因→果」が
恐いほどスナオに現れます。
私自身は
人に親切にしなかったりすると
ほぼ必ず「悪いこと」が起こるし
良い事をすると
ほぼ必ず「良いこと」が起こる。
また私が
「この人バチ当たりだな」なんて思っていると
その人に
とてつもなく悪いことが起こる。
本当に恐いぐらい
スナオに「因→果」が起こります。
また私が
「ある人や場所などに興味をもっていて」
後に
「その人や場所に興味がなくなった」場合
その「人」や「場所」に
悪いことが起こったりもする。
少し恐い部分も
ありますが
本当に
「スナオな気」の中で
生きているなと
思います。
先日は
◆北京中医会(水道橋)
◆小金井塾・Tグループ(自由が丘)
の講義でした。
私
歳を取って
性格の極端さは
だいぶ緩和されたと思いますが
脳の極端さは
あんまり変わっていないなと
思います。
相変わらず
興味の無い物は
脳にインプットされない。
天気予報を見ても
興味があるのは「気温」だけ
だから
今日は「晴れなのか雨なのか」
5秒後にはもう思い出せない。
なので
台風が来ていても
知らない事の方が多い。
1回
プリンターのインクを切らした事があって
それ以来しばらく
「インクを買わなきゃ」と思い過ぎて
買った後
また何回も買ってしまい
こんな事になっている(↓)
「買わなきゃ」
という事は強く意識するから買うけど
インクに興味がないから
買ったことを
忘れちゃうのですね。
魂も魄も
意も志も
最低限ちゃんと働いていると思うので
意が「指向」した内容を
神(しん)が「ひろいあげる」時
興味のある
「限定的な内容」しか拾わない
という事なのでしょう。
やはり根本は
神(心)の在り方ですね。
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