先日は「全日本薬膳食医情報協会」さんの関連講義で
痹証の話をしました。
痹証の「病位」は
◆「いわゆる表」ではないけれど
◆「いわゆる裏(内臓)」でもなく
◆「表的(おもててき)」な部位
(↑私の勝手な表現です。中医用語ではありません)
にあるといえます。
つまり「表裏」でいえば「表に準ずる部位」
ということです。
だから治療法も
◆「いわゆる解表」(汗法)ではないけれど
◆「解表」と共通点のある「袪風湿」(小汗法)
(↑これは正式な中医用語です)
が基本となります。
吉野シェフ持参の「パスタ」と「独活」
(色々持参なさるのは大変ですね)
で、ここからは講義の内容ではないのですが
この「小汗法」
というか「小汗法を含む痹証の治療法全体」は
◆美容と深い関係がある!
と私は考えています。
なぜなら
◆小汗法とは「表的な部位にある有形の邪気」
を排除する方法
だからです。
つまり
◆袪風湿によって排除する「湿邪」には「メラニン色素」とか
「皮膚の老廃物」なども含めることができる
と思うのです。
また痹証治療では「小汗法」という視点だけでなく
督脈とか衛気とかに働きかけることもしますが
そういう諸々の方法をひっくるめて
◆とても美容と関係するな
と考えています。
[副題:伯母を訪ねる①]
先日「89歳になる伯母」の家に遊びにいきました。
89歳というのに、まだまだ元気で
ペラペラと話す「おしゃべりなおばちゃん」でした。
すばらしいですね。
ま、ウチの家系は父方も母方も「胃腸が丈夫」で
よく食べる人ばかりなので
年をとっても元気(長寿)な人が多いのですが
(もう1人の伯母は93歳です)
それにしても「本人の努力」なしにはあり得ない事です。
(実際、みなさん「努力家」です!)
最近は 「モンスターペアレント」 とかも居ますが
「行儀のよさ」 は、世界に誇れる日本人の長所だと思います!
なんだかとても勉強になりました。
そしてもう1つ、思わぬ収穫がありました。
それは…
私も45歳ですからね
◆「自分のことを0歳の時から知っている人」
と会って話をする
なんてことは、もう殆どありません。
でも伯母は、私すら知らない「0歳の私」を知っていて
しかも私が知らない「私が生まれる前の、私の両親」のことも
知っています。
そういう人と共に過ごす時間……
なんでしょう、あの「得も言われぬ安心感」
ふと
◆男は 「己(自分)を知る者」 の為に死に
◆女は 「己(自分)をよろこぶ者」 の為にかたち作る *
という『史記』の言葉を思い出しました。
この言葉、「基本精神」としては
まだ活きているような気がします。
◆自分を知ってくれている人がいる
これは人間を本当に 「力づける」 のですね。
私なんて…
◆本当に「ちゃんとしていない大人」で
◆毎日「ぷら~っと」勝手に生きていて
◆人さまのような「緊張感」など無い人生のようでも
それなりに「緊張」して生きているのだな
と感じました。
安心というものの威力を思い知りましたね。
ま、人はみな
順番に居なくなっちゃいますので
あの「安心感」を
いつでも思い出せるように
魂に刻んでおこうと思います。
その「記憶」が
これからの人生を支えてくれますね。
物持ちの良い私―→25年近く使ったカバン
(最近、高校生の息子にあげました)
(そもそも「彼の母親」から、学生時代にもらったものです)
――――――――――――――――――――――
*
“士為知己者死、女為悦己者容”
『史記』 刺客傳
今日は
◆北京中医薬大学・日本校開講10周年記念の祝典
がありました。
おめでとうございます!
私は式典で
講演をさせていただきました。
ハレの舞台で話をする機会を頂戴し
大変、光栄です。
ありがとうございました。
私は
◆『中医各家学説』の大切さ
という話をしました。
その大切さを、とりあえず
◆『中医各家学説』というソフトを脳にインストールし
全ての中医情報を、このソフトを使って開かなければ
意味の大部分は分からないままだ
と表現しましたが。
◆「読み取る目」を持たないままで
いくら情報に触れていても
情報の意味が開示されることはない
とも表現できますね。
たとえば外国語もそうです。
誰かが突然
古代インカ語で話を始めたとしましょう。
◆その言葉には「意味」がつまっています
◆でも「聞き取る能力」がなければ
意味は理解できないままです。
中医学もこれと同じで
『中医各家学説』的な意味での基礎知識や
『中医各家学説』的な認識方法
をある程度習得していないと
あらゆる中医情報の意味は開示されないままで
終わってしまいます。
それでは…、残念ですよね。
是非!
◆中医各家学説的な視点と視野
(つまり「情報を読み取る目)を)
をもって頂きたいと思います。
「講演」→「祝賀パーティー」→「神楽坂のバーで2次会」
の途中まで参加して
最後は「レミー事務所」に戻り、仕事しました。
今日は墓参にいってきました。
暮れも正月も墓参にいかず
相当に気になり続けていたので
本当にスッキリしました。
その後はレミー事務所で
いつものように本を書き
そのままレミー事務所で
製薬会社の人と
幾つかの仕事の打ち合わせ
で、飲みに行くことになり
京都っぽい飲み屋さん
でごちそうになりました。
ありがとうございます!
私、「薬膳科」の学生さんが多いせいもあり
製薬会社の人といるとよく
◆薬膳で使いやすいようになっている
幾つかの生薬のラインナップがあったらいいと思いますよー
形になるといいですねー。
私もそれなりの時間、中医を学んでいますが
時期によって、気持ちはどんどん変化します。
簡単に流れを紹介すると…
[時期①] 勉強しても認識がつながらず心配した時期
↓
[時期②] 認識がつながり始め、面白く楽しかった時期
↓
[時期③] 本や原稿を書く仕事を始め
勉強のモチベーションが、純粋な好奇心や
楽しみだけではなくなり…
そんな「不純な自分」が許せず悩んだ時期
私、学問というものは
純粋に「知りたいから」「知ることがたのしいから」
という理由でするべきだと思っていたのですが
[時期③]の頃は、なんだか勉強が
◆文章を書くための取材
みたいになってしまい「自分はすっかり汚れてしまった」
と、本当になんだか憂鬱でしたね。
◆もう自分に「学問をする資格」はない!
などと考えて「勉強することを禁止」
したりしてました。
↑
これはMではありません。
私、基本がSなので、自分に対してもSなのです。
で、その後[時期④]がやってきます。
[時期④] 仕事で好きな勉強ができるなんて幸せじゃないか!
個人的な勉強がしたいなら、すればいいじゃないか!
と考えるようになった時期
で、どうも去年ぐらいから
また新しい時期に突入したように思います。
全てをうまくは言えないのですが…
まず思っているのは
◆「講義」でも「本の執筆」でも、とにかく
「プロの中のプロの中のプロ」 ぐらいのクオリティを目指したい!
ということですね。
さらに思っているのは
◆せっかく頂いた命を
もっともっと「ちゃんと燃やしたい」
みたいな衝動ですかね。
ただ「やみくもに燃やす」のではなく
「どう燃やすのか」とか
「燃やしている火のクオリティ」とか
そんな事を気にするように
なったのかも知れません。
別のインドカレー屋のセット
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